2018年1月22日月曜日

2018年1月18日(木) 2015年のヨンリーンのこと・他

朝外へ出ると夜に降った雨のせいで路面が濡れているが青空が広がりそして空気が暖かかった。

木曜ともなると全てが終わっていき脳が働かない状態で仕事。ぼんやりしており財布に金が入っていない状態で昼食を食べた結果代金を支払うことができず、事情を話して運転免許証をお店の人に預けて近くのATM(オート・ターミナル・マネーシステム)でお金を下ろしたのち店に舞い戻り食事した分の代金を支払い運転免許証を返却してもらう。

午前中は晴れていたが午後から雲が広がってきて、また低気圧が近づいてる予感がして何もできないので閉店状態になる。そんな状態の中どうにかこうにか仕事をやっつけ退勤。

無なので食事ができない状態にあり富士そばで夕食食べて帰ったほうが楽なのは分かりつつも食欲なく素通り。代わりにコンヴィニで冷凍うどんとコーヒー買い帰宅し横。

今ヨンリーンの音楽に夢中になっているため色々ネットで調べていたら、YouTubeにアップされている彼のビデオ("Red Bottom Sky")のコメント欄で「彼は(このビデオで)めっちゃしんどそうに見えるけど、今は精神的に良くなってるといいな」と書いている人がおり、そのコメントに対して「FaderのMiamiの記事は読んだか」という返信があった。

ヨンリーンのこのビデオ("Highway Patrol")は初めて観たとき明らかにアメリカのどっかで撮影されてるなと思ってたけど、これマイアミだったのか、と思ってマイアミにいるときに何かあったのか、つーことでそのFADERの記事("Yung Lean's Second Chance")を読んでみると、とても重い内容だったが、2015年にヨンリーンと彼のクルーSad Boysに何が起きたのか、ということから始まって彼らの暮らすスウェーデンにおけるインディーミュージックシーンやアメリカのカルチャーがいかに北欧の若者たちに影響を与えているか、ということにまで言及された非常に読み応えのある記事であったので、下記に要点をまとめる。

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・2015年の初め、Yung Leanは3作目のアルバムを制作するためSad BoysのクルーであるBladee、Yung Sherman、そしてヨンリーンのマネージャーEmilioとともにマイアミを訪れていた。このときYung Leanは18歳。Yung Shermanは20歳、Bladeeは21歳だった(みんな若い!)。

彼らのマイアミ滞在をセッティングし、また世話をしてくれたのはアメリカで "Hippos in Tanks" というインディーレーベルを運営していたBarron Machatという人物。「新時代のアバンギャルド・ミュージック」を掲げた彼のレーベル運営と音楽に対する情熱はアメリカのエクスペリメンタルな音楽シーンで深く愛され、また尊敬されていた。ちなみに彼の父親はエンターテイメントを専門にした弁護士で、オジー・オズボーンやボビー・ブラウンなどを担当している大物であった。

・マイアミのスタジオでの制作をあらかた終えた彼らはスウェーデンに帰ろうとするが、Yung LeanとBladeeはマイアミに残って何回かライブをし、そしてNYへ向かうという。この時それを聞いたYung Shermanは、彼らの滞在延長は「(既にスタジオワークを終えているのに)不必要なことだと感じた」と語っている。

この時点で既にYung Leanはドラッグにズブズブに嵌ってしまっていた。リーンだけでなく、ザナックス、マリファナ、そしてコカイン。

重度のヤク中となってしまったYung Leanは夜通し起き続けるようになり、ナース服を着たりナイフを持ち歩いたりと奇行が目立つようになる。またバルコニーに座ってiPhoneで "Heaven" なる小説を書く。これは幼少時に見た「人々がねずみに変わっていく」悪夢を元にしたストーリーらしいが、これを読んだBarronは内容がダーク過ぎるから書くのを止めろとYung Leanに伝えている。

・2015年4月7日、BarronはYung LeanとBladeeを自宅に残して出かける。するとYung Leanは突然鼻血を流し始めた。Snapchatでスウェーデンにいる彼のガールフレンドと話そうとログインしたとき、偶然彼女も鼻血を流し始める。ドラッグでぶっ飛んでいたYung Leanはこの時完全にドラッグによる幻覚と現実との境目を失い、Barronの部屋の椅子や家具をブン投げ彼の自宅を破壊し始めた。彼とともにいたBladeeが911に電話したとき、Yung Leanは血まみれになっていた。

・Yung Leanは病院に搬送されたときひどく分裂症的な状態になっていた。その日の深夜(4月8日の早朝)Yung LeanはBarronにマイアミでレコーディングした音源のファイルを全て引き渡すよう懇願する。

連絡を受けたBarronが車で出発したとき、助手席にはHunter KarmanというLA出身の21歳の若手プロデューサーが乗っていた。警察の報告によると、彼らの車が車線を越えて信号機のポールに激突したとき、およそ時速60マイル(約時速100km)のスピードが出ていたという。グシャグシャになった車が交差点に停まるとエンジンから炎が吹き上がった。通行人たちが車の中からHunterを救助するが、Barronは車に挟まれ助け出すことができなかった。彼は車の中で亡くなった。Barronの父StevenとYung Leanによると、Barronはこの時ザナックスを服用していたようだった。

・この悲報が知られると、Barronを慕う多くの人々がネット上で哀悼の意を表した。彼の人柄や情熱がいかにアーティストたちを勇気づけ、また彼らのために様々な機会や場所を作ったか、彼の偉大な功績を記憶に留めようとする投稿が絶えなかった。

この悲しい事故があったとき、Yung Leanの父親がスウェーデンから息子の入院している病院へとやってきた。最初Yung Leanは彼の父親を認識できなかった。この病院に4日間入院した後、二人はスウェーデンへ帰ることになる。

・スウェーデンではSad BoysのプロデューサーであるYung GudがYung Leanのアルバムを完成させようとスタンバイしていた。しかしマイアミから戻ってきたレコーディングのファイルはひどい有様で、いくつかパートが欠けていたりボーカルトラックがひどく歪んでいるようなものだった。Yung GudはYung Shermanとともに1ヶ月かけてそれらのファイルを何とか再構築し、そしてYung Leanにもう一度ボーカルをレコーディングするよう連絡する。

2015年の11月、アルバムからの1stシングルとなる "Hoover" のビデオが公開。2016年にはアルバム "Warlord" がリリースされ、それに伴うワールドツアーがアナウンスされる。これはYung Leanたちが再びアメリカを訪れるということを意味した。

・このアナウンスが発表されたわずか5日後、突如 "Warlord" のブートと思しきアルバムがSpotifyにて公開される。このブート盤の正式タイトルは "Warlord (This Record is Dedicated to the Memory of Barron Alexander Machat (6/25/1987 - 4/8/2015))" 。落書きのようなヨンリーンが中指を立てているイラストのそれは、聴いた人によると「未完成」な印象で、そして事故で亡くなったBarronが運営していたレーベルHippos in Tanksへのトリビュートを思わせる "Hippos in Tanks A division of the Machat Co" というコピーライトが付いていたという。

この "Warlord" ブート盤をアップロードした人物は、事故で亡くなったBarronの父親であり、そしてレーベルHippos in Tanksの共同運営者であったSteven Machatその人であった。

・StevenはYung Leanたちのアルバム制作に出資し、金銭面でサポートをしていた。そのためこの "Warlord" のデモ・ブート盤をリリースする権利があると考えていた。そして亡くなった息子に捧げるために。StevenはYung LeanがBarronの葬儀に出席せずスウェーデンに帰国したことを強く非難した。このブート盤リリース騒動も含めて、Yung LeanたちとStevenの間に深い怨恨が残ることとなってしまう。

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以上が2015年、マイアミでYung LeanらSad Boysの面々に起こったことの全てである。年端もいかぬ若者が成功を手にし、すぐにドラッグに嵌ってしまう現実。よくあるロックスターの栄光と没落のストーリーの形式を踏襲しているように見えるが、年齢の若さと成功を手にするスピードというのが90年代なんかと比べると全然違う。

特にリーンやザナックスで命を落とす若いラッパーが最近後を絶たず、海外では大きな社会問題となっている。

上で紹介したFADERの記事によると、このマイアミでのことがあって以降、Yung Leanはドラッグを辞め、クリーンに暮らしているらしい。

記事の後半に載っていたヨンリーンの幼少期の話やスウェーデンのインディーシーンからフックアップされた話など、とても面白かったので元気と時間があるときにまた訳して紹介したいと思う。

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