2018年1月28日日曜日

2018年1月25日(木) ECDと私

目を覚ますとエアコンも電気もつけっぱなしで寝てしまっていたため全部消してまた寝る。悪夢を見てまた目覚め、枕元のケータイの時計を見たらすでに始業時間を過ぎてしまっていた。あ~~~と声を上げながら起きて即会社に電話し寝坊のため遅刻する旨を伝える。

ツイッターを開くと自分がフォローしている人が「ご冥福をお祈りします」とツイートしているのが目に入り、またタイムラインに「The Fallのマーク・E・スミス逝去」の記事がRTされて流れてきていたので、ああどんどん人が亡くなるな……と思うが、寝坊して終わっている脳裏にある考えがよぎり、嫌な胸騒ぎを覚えてTLを遡っていくとすぐに分かった。ECDの訃報。ついに来てしまったか、という思いのすぐ後に、信じられない、という気持ちが湧き起こる。

ひどく動揺してしまって、気を落ち着けようとベランダに出てタバコを一本吸う。抜けるような青空。ECDはデヴラージに会ったかな、ECDとクボタタケシとD.Lというレジェンド三名がレギュラーだったパーティー、Double SiderはD.Lの死後 "OVERSEEN BY D.L"(D.Lに見守られてる)という文言をフライヤー上に常に掲げていたが、ここにECDの名も加わってしまうのか、とかそんなことをぼんやり考えていた。

タバコを吸い終えたらひどく脱力してしまい、昨日の不調の続きで今日もめちゃくちゃで、またベッドに横になりたいと思ってしまうが、やらなくてはいけない仕事もあるので気力振り絞り着替えて家を出る。

一時間の遅刻をメイクし謝りながら出勤。全無理の状態で働く。信じられない。ECDが死ぬなんて絶対に信じられない。

ツイッターのタイムラインがECDに対する追悼で埋まる。

仕事中タバコを吸うため外に出てきれいな青空を見るたび、もうECDがいない世界になってしまった、と思う。

スタンダード(?)な鬱病だと一日のうち朝が一番憂鬱が強く、夕方~夜にかけて少しずつ気分が楽になるそうだが、自分の場合は逆で朝はあまり憂鬱を覚えないが午後~夕方にかけてどんどんつらくなっていく。

コーヒーとチョコレートで脳に鞭打ち無理やり働いて、何とか最低限のところまで終わらせる。

フッドのチャイニーズレストランで夕食をとり帰宅。

正月に帰省した際にこちらへ持って帰ってきたECDの大好きなアルバム "TEN YEARS AFTER" のアナログを、帰宅したら真っ先に聴こうと昼の間中ずっと考えていた。

ところがレコード棚を探しても中々見つからず、泣きそうになりながら探し続けてようやく見つけた。うやうやしくジャケットから盤を取り出しタンテに乗せて針を落とす。このアナログ二枚組みの "TEN YEARS AFTER" は、Illicit Tsuboiの手により曲の前後(と曲中にも?)に同作のCD版にはない音が加えられ、一層ぶっ飛んだ、そして聴いていて非常に楽しい作品となっている……。

ル~ディ~なギターのサンプルが流れ、そしてフェードアウトしECDの愛機である808実機のキックがブン……と鳴ると、チキチキチキチキチキチキチキチキ……という808のハイハット連打が鳴り響き、そこにECDの愛機であるRolandのビンテージサンプラー、W-30の鍵盤から発せられるオケヒットのサンプルが爆音で乗り、血が沸騰する。

「時計見る6時 / まだ眠いロクに / 取れてない疲れ / 皮にやまいだれ / 分刻みまた寝て覚めてギリまで / 毎朝の儀式 / 秒読み 3・2・1 ・0 でさあ行くぞ今日もこんちくしょう / イヤホン両耳に入れて脳に響かせる808 / 走る京王線 / 都営新宿線 / 通うもう9年 / 遠くに遠くに遠くに遠くに遠くには行けない訳がある……」(I Can't Go For That / ECD)

直接の知り合いではないが自分の人生に重大な影響を与えた人のことについて語ろうとすると、どうしても自分の人生を語ることになってしまう。

初めてECDを聴いたのはいつのことだったろうか。訃報を聞いてからずっと考えていた。最初に買ったアルバムは確か2ndの "WALK THIS WAY" だったと思う。北浦和のユニオンで中古で買ったのではなかったか。そして3rdの "HOMESICK" は春日部の良心、A-1レコードで中古で買ったのを覚えている。ECDくんステッカーもちゃんと入っていた。

「東京ってもうダメなのかなぁ」(ECDの "東京っていい街だなぁ" / "WALK THIS WAY" 収録)とか「チャンスだドアほら開いてるぜみんな / 後はそっと忍び込む段取り」("Do The Boogie Back" / "HOMESICK" 収録)とか、キャッチーなフレーズが耳につき印象に残っていた。インタビューか何かで読んだと思ったが、ECDが自身の声質について語っていて、「自分の声は音の成分が少なく(?すみません、うろ覚え)、系統でいうとジョー・ストラマーの声に近い」と言っていた。ラップのスキル云々よりも、ECDの存在感のある声がまず印象に残った。

最初に聴いたECDの音楽はこの二枚のアルバムだということは間違いないのだけれど、それらを買った時期がいつだったのかはよく覚えていない。ロクに就活をしないまま卒業し、そのまま何も考えずダラダラと実家暮らしのフリーターとして暮らしていたころのことだったと思う。

大学在学中から地元の友達とバンドをやっていて、卒業してからも一応バンド活動は続いていた。たまにライブハウスのブッキングで平日にライブをしたりして、対バンのバンドがなんだかみんなNUMBER GIRLの影響丸出しみたいなのばっかりで、いわゆるロックバンドのフォーマットの音楽めちゃくちゃつまんねえな、という気持ちを募らせていたのをよく覚えている。

実家でうだうだ惰性でしかないフリーター生活をし、やっていたバンドも正直そこまでの熱意があったというわけでもなく、自分が何をやりたいのか、どうなりたいのか分からない、ほんとに未来も希望もないしょうもない毎日を送ってひたすらくすぶり続けていた。

そんなある日、LESS THAN TVのイベントとかで度々名前を目にし、またインパクトのあるビジュアルもあって非常にその存在が気になっていたサイプレス上野とロベルト吉野がついに1stアルバムをリリース!というニュースを目にし、新宿のタワレコの試聴機に入っていた彼らの1st「ドリーム」を聴いたとき、視界がパッと開けた気がして、泣き出したくなるような気持ちになった。

それから現行の日本のHIPHOPが俄然気になりだしたところ、2008年~2009年にかけてタワレコのサイトで「サイプレス上野のLEGENDオブ日本語ラップ伝説」という連載が始まる。サイプレス上野と東京ブロンクスの両氏がゲストを交えつつ思い入れたっぷりにレジェンドたちについて語ったこの連載は、情報量と熱量ともに非常に多く、自分がリアルタイムでは体験してこなかった日本語ラップシーンが追体験できるようで、とても愛読していた。ちなみにこの連載は後に書籍化されている。あと当時はダメレコCEOだったダースレイダーのブログも毎日チェックしていた。多分この流れで上で挙げたECDの2ndと3rdを買ったのではなかったか?

そして2009年、同じく新宿のタワレコの試聴機に入っていたPSGの "DAVID" とslackの "Whalabout?" を何の気なしに聴いてみたら、これまた目玉の飛び出るような衝撃を受け、それからはもう完全にHIPHOPに夢中になっていく。

……のだが、自分がECDの音楽とちゃんと出会ったのは別のルートかも知れない?

大学在学中にボアダムスのEYヨが表紙のSTUDIO VOICEで特集されていた "NO WAVE" 、その中に載っていた中原昌也によるスロッビング・グリッスルの記事。暴力温泉芸者~Hair Stylisticsの音楽と、SPAで連載されていた映画評「エーガ海に捧ぐ」を読んで中原昌也の表現に夢中になり、彼の連載でECDのアルバムが素晴らしい、と書いてあるのを見たのをよく覚えている。ので中原昌也からECDにたどり着いたという流れかもしれない。

古本屋でECDの著書「ECDIARY」をこの時期に購入して読み、ECDの率直な物言いと淡々とした文体、また彼の実直なアティテュードに衝撃を受ける。この本を読んだことによって「ラッパーECD」から「生活をしながら音楽を制作し、また文章を書く表現者・ECD」というイメージが自分の中で出来上がった。2004年の自衛隊イラク派遣反対デモ等、あらゆる問題を他人事ではなく自身の生活の延長上にあることと考え、おかしいと思うことに対しては声を上げる。「失点インザパーク」のアルバムのジャケのエピソード等、実家暮らしで何も考えずボンヤリと生きてきた当時の自分にとって、この本は生活の中で社会とコミットするということを生々しく教えてくれた。頭をガツンとぶん殴られるような目の覚めるような思いだった。

中古で買ったECDのアルバム "Crystal Voyager" を聴いて腰が抜けるような衝撃を受ける。Rolandの名機TR-808とTB-303の実機で作られたこのアルバムは、シンプルだが激アシッッッドな中毒性のあるトラックに、これまたキャッチーなECDのラップが乗る大傑作であった。「E is for Easy, C is for Cheap / D is for DopeでDangerous / 簡単 安い ヤバい 危険 / 簡単 安い ヤバい 危険」(E.C.D / "Crystal Voyager" 収録)「チャラチャラしてるだけで命がけ / ヘラヘラしてるだけで嫌がらせ」(Copying Kills Capitalism / 同アルバム収録)などなど、分かりやすくヤバいパンチラインだらけの凄まじいアルバムだ。それからユニオンなどでECDの昔のアルバムを見かけるたび購入し、欠けたピースを少しずつ埋めるように聴いていった。

ECDの自伝「いるべき場所」も古本屋で購入(さっきからCDも本も中古でばっか買ってるな……このころはしがないバイト暮らしで金がなかった、すみません)して貪るように読む。デヴィッド・ボウイとの出会い、山崎春美との出会い、セックス・ピストルズとの出会い、そしてHIPHOPとの出会い、さんピンCAMPの開催、そしてアル中生活……。70年代から80年代、そして90年代とポップミュージックが移り変わっていく様を、自身の体験として瑞々しくまた生々しく綴ったこの本は、ECDの半生を綴った内容であると同時にポップミュージック / カウンターカルチャーについての良質な歴史書でもある。この本の中でECDはHIPHOPとパンク~ニューウェイヴからの流れで出会っており、そこに自分は大いにシンパシーを覚えた。ECDはその時代時代で一番尖った表現に惹かれていった結果HIPHOPに出会うのだが、自分は全ての音楽が揃っている時代の中で、たまたま同じ道筋でパンク~NEW/NO WAVE~HIPHOPにたどり着いたからだ。話は逸れるがSTONES THROWの首領、Peanut Butter Wolfも元々Baron Zenという宅録パンク /  ニューウェイヴユニットを十代のころにやっていたし、その流れでHIPHOPにたどり着いた人に対して自分は勝手に共感してしまうし、そういった人たちはHIPHOPを聴いてHIPHOPを始めた人たちよりも面白いことをやっていることが多いと思っていた。今では最早そんなことは関係なく、HIPHOPは目まぐるしいスピードで世界中でアップデートされ続けているのだが……。

自分は2010年にツイッターを始めた。ECDももちろん即フォロー。日々のツイートから、よりECDを身近な存在として(勝手に)感じられるようになった。そして自分にとってリアルタイムで新品で購入したECDの初めてのアルバムは「天国よりマシなパンの耳」だった。「ECDIARY」と「いるべき場所」を読んで、ECDがどんな風に曲を作っているか知っていたし、どんなことを考えて生きているかも一方的に知っている気になっていたので、当時出たこのアルバムがより一層生々しい鳴り方で聴こえた。

そして2010年の5月、自分にとって一番衝撃を受けたECDのアルバム "TEN YEARS AFTER" が発売される。一曲目の "I Can't Go For That" から脳天をブチ抜かれたような衝撃が走る。最新のUSのHIPHOPをチェックし、当時最先端だったサウスのバウンシーなビートを808の実機で(!)曲に取り入れ、さらにライムもタイトになり非常にソリッドかつルードかつキャッチーかつ……言葉にならないくらいの大傑作なのであった。

リリックの内容もより生々しく自身の生活をさらけ出すものに変わり、結婚し子供を育てる日常の中で音楽を作るということ、その決意に満ちた力強いもので、全てがパンチラインといっても過言ではないものだった。このアルバムを聴くことによって、パーソナルな表現が直球で人の胸を打つ力強い普遍性を持つということを改めて思い知らされた。

その中でもアル中時代の自身の生活を振り返った「Time Slip」(つまづけたころ / タイムスリップ / つまづけたころ / タイムスリップ というフックのリフレインが今聴くと別の意味を持ってしまい切ない……)や、ギャングスタラップでよく海外のラッパーたちが自身のハスリンライフを重ねてリリックのモチーフにする映画スカーフェイスの麻薬王トニー・モンタナを、ECD流のHIPHOPに対する回答としてラップする曲「Tony Montana」もECDの誠実さとHIPHOPに対する憧憬、日本のHIPHOPのオリジネイターの一人としての誇り、HIPHOPを選んだ表現者としての誇り、それらが全て込められた壮絶な大名曲であった。「金 車 女 HIPHOP 銃 薬 ラップミュージック / トニモンタナ トニモンタナ トニモンタナ トニモンタナ」「金 しがないバイト暮らし / 車 免許も持ってない / 女 37まで童貞 / HIPHOP ごめん落ちこぼれ / 銃 全く縁がない / 薬 コカインやりかけた / ラップミュージック 今でも買ってるCD / 自分で作って売ってる音楽」(Tony Montana / "TEN YEARS AFTER" 収録)金・車・女・銃・薬とギャングスタラップの世界でステータスとされている物を挙げ、それらとは全く正反対の現状を率直にラップして自分の憧れる「HIPHOP」に対して自分を「落ちこぼれ」だと表現する。そしてその後に続く「ラップミュージック今でも買ってるCD自分で作って売ってる音楽」というラインがひたすら熱くそして感動する。

このアルバム "TEN YEARS AFTER" は自分にとってとても思い入れのある作品であり、糞みたいな生活を送っていた当時の自分はこのアルバムを何遍も繰り返し聴きながら背筋の伸びるような気持ちになったのをよく覚えている。

このアルバムが発表された頃のインタビュー等でECDが名前を挙げていたことにより、自分はミンちゃんことMinchanbabyとCherry Brownというヤバくて才能あふれるラッパーたちのことを知ることができた。常に最先端のHIPHOPを追いかけているECDの姿勢に震えたものである。

初めてECDのライブを観たのは今はなき青山のelevenで2010年10月27日に行われた "HARDCORE FLASH" というイベントで、この日初めて観たCherry Brownのライブのあまりのフレッシュさにノックアウトされ、またRAU DEFのステージに客演として登場した5lackの神童っぷりに震えた。確かPUNPEEがバックDJで三人でじゃんけんしてフリースタイルとかやっていた気がする。そしてECDのライブはイリシットツボイがターンテーブル1 and 2、そしてECDがRoland W-30をセットし鍵盤でサンプルを再生しながらマイクスタンドに付けられたマイクでラップするというお馴染みのセットで、何遍も聴きまくっていた "TEN YEARS AFTER" の曲たちが目の前で演奏されていることにいたく感動した。そしてこの日のサプライズとして、Kダブと一緒に十年以上ぶりに「ロンリー・ガール」が演奏されるというのもあって、フロアーは大いに沸いたのだった。

それからは機会があるたびECDのライブに足を運び、THREEでのレスザンのイベントか何かの日、出番を終えて廊下で談笑しているECDを見かけるもびびってしまって声をかけられなかったり、BUSHBASHでのワンマンライブ(開演前・開演後のDJも全てECDがやる本当のワンマン)を観に行って運よく一番前で終始ライブを観て、全ての曲のライブを終えたECDが「ありがとう!」と大きく手を振るとすぐにステージを降り自分の真横を通り過ぎてラウンジのDJブースへ走っていったり、イリシットツボイの曲間の煽りがなかなか終わらないのを横でジッと待っている姿とか、一回だけいつまでも続く煽りに業を煮やしてイリシットツボイを蹴るようなそぶりを見た覚えがあるが、その頃に観たライブはどれも素晴らしく、「憧れのニューエラ」をKATAかどっかでのライブで初めて聴いたときは泣きながら踊った覚えがある。

自分も未来のない実家暮らしのフリーターから無事ブラック企業に就職して働きだすと、より一層ECDの音楽が刺さるようになり、またDatpiffをはじめとするMIXTAPE文化も目新しくて色々ダウンロードして聴いたりと、過酷な現実から逃げずに真正面から向き合い闘うための音楽 = HIPHOPという図式が自分の中で出来上がったのが2012~2013年頃だと思う。

いつかECDに自分のオーガナイズするイベントに出てほしいとずっと思っていて、南池袋ミュージックオルグ(R.I.P.)という場所でレギュラーでやらせてもらっていた "HOMEWORK" というイベントの第7回目のとき、ECDをフィーチャリングした "Trouble Makker" という曲を含むアルバムをリリースしたSIMILABのRikkiの出演が決まっていたこともあり、このときに初めて出演のオファーをした。しかし残念ながらECDの仕事の都合でどうしても出演できないとのことで、RikkiとECDの共演を観ることは叶わなかった。そのときは既に自分のアルバム "HOMEWORK" をリリースしてSoundcloudに全曲アップしていたので、オファーのメールに「自分の音楽はこんな感じです」というふうにECDに送っていたはずだが、果たしてECDがそれを聴いたのか、もし聴いてくれたとしたらどう思ったか、今では知るよしもない。この出演依頼のメールのやり取りだけが、ECDと自分が直接やり取りをした唯一の接点である。その一連のメールは今でもメールボックスに残っている。

それからミュージックオルグが閉店し、自分はどんどん頭がおかしくなり鬱病の予兆のようなものが出始め、音楽どころではなくなってしまった。

ライブに遊びに行ったりとかそういうことも減ってきて、そんな中で自分がECDを再び目撃するようになったのはクラブやライブハウスではなく、安保法制反対デモなどのストリートにおいてであった。

当たり前のようにいつもデモの中にいて、当たり前のようにおかしいことに反対する。デモの隊列の中にECDのあの大きい背中を見つけると安心感がすごかったのを思い出す。デモ隊の列幅が警官隊によって縮められそうになったとき、最前で警官とやりあい最後まで抵抗するECDの姿をよく覚えている。

ただ、ツイッター上でECDの発言を見ていて、差別などに対する反応の激しさに自分の中で少し引いてしまう部分もあった。そんな自分に対して(意味不明なのだが)後ろめたさを感じてしまうこともあった。

そんな中でリリースされたアルバム "Three Wise Monkeys" 、出てすぐに購入したが何故か聴く気になれなくて、ずっとそのままにしてあった。自分の頭で考えて行動し、進み続けるECDに対して妙な後ろめたさがあったのかもしれない。

2016年、自分は鬱病でずっと気が塞いだまま過ごしていた。ツイッターを辞めていた間は本当に見てなかった。なのでこの年にECDに何があったのかはほとんど知らない。久しぶりにログインしたツイッターで、ECDが癌になったことを知った。

2017年、同じく自分は鬱病のまま。秋が来て、自分のレーベルのこと、ユンキーのことを本格的に動き始めてきたころ、普段はほとんど行かない会社の近くの本屋に何となく立ち寄ると、雑誌クイックジャパンが目に留まる。クイックジャパンってまだ出てたのか……そう思って手に取りペラペラめくると、癌との闘病生活でめちゃくちゃ痩せてしまったECDの家族写真が載っているのでとても驚いた。この秋に新しい著書「他人の始まり 因果の終わり」も出るという。このクイックジャパンは買わなくてはいけないと思い、買って帰った。すっかり痩せてしまったECDがアディダスのセットアップを着て家族と散歩している姿はとても格好良かった。

普段は全く見ないドミューンも、ECDがDJするとなると観るしかないと思って観た。サディスティック・ミカバンドの「タイムマシーンにおねがい」が切ない。でもSuicide→ガセネタの流れは震えた。

ECDの最新の著書、「他人の始まり 因果の終わり」と文庫化された「ホームシック生活(2~3人分)」とMinchanbabyの「たぶん、絶対」を新宿のタワレコで買った。「他人の始まり~」を読んでいると、壮絶な癌との闘病生活の様子が書かれているのだが、入退院を繰り返して大変な思いをしてもタフに病気と闘うECDの姿は、不思議と安心感を与えてくれた。ECDのことだからきっと大丈夫、絶対治って60、70、80までラップし続けるだろう、そう思っていた。

2018年の1月、東京に大雪が降ったその二日後、自分がツイッターで「死にたい」とか喚いていたちょうどそのくらいの時間に、ECDは息を引き取った。それを知った自分はまたしてもばつが悪い気持ちになった。

ECDは自分にとって「おれはこう考えるからこう行動する(で、お前はどうなんだ?)」と常に問いかけてくるような存在だった。音楽も子育てもデモもカウンターも、全てが自分の生活と繋がっていることを知っているからこそ、常に行動していた。

ECDの著書の中で頻繁に出てきた「録音データをツボイくんに送り、これで自分がいつ死んでも最新作はリリースされるので安心する」という表現。そしてECDの訃報が流れたあとのイリシットツボイがツイートしたスタジオの写真には、ECDの愛機Roland W-30が写っていた。

"TEN YEARS AFTER" のアナログを聴いて、"憧れのニューエラ / ラップごっこはこれでおしまい" の12インチを聴いて、"君といつまでも" の7インチを聴いて、ECDが音楽の中に生きているのを知ってとても驚いた。ECDの音楽を再生している間はECDはいつでも甦る。こんなに頼もしいことはないと思った。

この日の夜はクタクタに疲れてしまってECDの死もショックだし何もできん、寝よう……とも思ったが、それは絶対違うだろうと思って思いとどまった。ECDが死んでしまった。じゃあどうするか。音楽を作ろう、そう思ってサンプラーを立ち上げ、レコードをタンテに載せ、良さそうなフレーズをサンプリングしていく。

ECDさん、お疲れ様でした。どうもありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

(文中 すべて敬称略)

2018年1月22日月曜日

2018年1月18日(木) 2015年のヨンリーンのこと・他

朝外へ出ると夜に降った雨のせいで路面が濡れているが青空が広がりそして空気が暖かかった。

木曜ともなると全てが終わっていき脳が働かない状態で仕事。ぼんやりしており財布に金が入っていない状態で昼食を食べた結果代金を支払うことができず、事情を話して運転免許証をお店の人に預けて近くのATM(オート・ターミナル・マネーシステム)でお金を下ろしたのち店に舞い戻り食事した分の代金を支払い運転免許証を返却してもらう。

午前中は晴れていたが午後から雲が広がってきて、また低気圧が近づいてる予感がして何もできないので閉店状態になる。そんな状態の中どうにかこうにか仕事をやっつけ退勤。

無なので食事ができない状態にあり富士そばで夕食食べて帰ったほうが楽なのは分かりつつも食欲なく素通り。代わりにコンヴィニで冷凍うどんとコーヒー買い帰宅し横。

今ヨンリーンの音楽に夢中になっているため色々ネットで調べていたら、YouTubeにアップされている彼のビデオ("Red Bottom Sky")のコメント欄で「彼は(このビデオで)めっちゃしんどそうに見えるけど、今は精神的に良くなってるといいな」と書いている人がおり、そのコメントに対して「FaderのMiamiの記事は読んだか」という返信があった。

ヨンリーンのこのビデオ("Highway Patrol")は初めて観たとき明らかにアメリカのどっかで撮影されてるなと思ってたけど、これマイアミだったのか、と思ってマイアミにいるときに何かあったのか、つーことでそのFADERの記事("Yung Lean's Second Chance")を読んでみると、とても重い内容だったが、2015年にヨンリーンと彼のクルーSad Boysに何が起きたのか、ということから始まって彼らの暮らすスウェーデンにおけるインディーミュージックシーンやアメリカのカルチャーがいかに北欧の若者たちに影響を与えているか、ということにまで言及された非常に読み応えのある記事であったので、下記に要点をまとめる。

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・2015年の初め、Yung Leanは3作目のアルバムを制作するためSad BoysのクルーであるBladee、Yung Sherman、そしてヨンリーンのマネージャーEmilioとともにマイアミを訪れていた。このときYung Leanは18歳。Yung Shermanは20歳、Bladeeは21歳だった(みんな若い!)。

彼らのマイアミ滞在をセッティングし、また世話をしてくれたのはアメリカで "Hippos in Tanks" というインディーレーベルを運営していたBarron Machatという人物。「新時代のアバンギャルド・ミュージック」を掲げた彼のレーベル運営と音楽に対する情熱はアメリカのエクスペリメンタルな音楽シーンで深く愛され、また尊敬されていた。ちなみに彼の父親はエンターテイメントを専門にした弁護士で、オジー・オズボーンやボビー・ブラウンなどを担当している大物であった。

・マイアミのスタジオでの制作をあらかた終えた彼らはスウェーデンに帰ろうとするが、Yung LeanとBladeeはマイアミに残って何回かライブをし、そしてNYへ向かうという。この時それを聞いたYung Shermanは、彼らの滞在延長は「(既にスタジオワークを終えているのに)不必要なことだと感じた」と語っている。

この時点で既にYung Leanはドラッグにズブズブに嵌ってしまっていた。リーンだけでなく、ザナックス、マリファナ、そしてコカイン。

重度のヤク中となってしまったYung Leanは夜通し起き続けるようになり、ナース服を着たりナイフを持ち歩いたりと奇行が目立つようになる。またバルコニーに座ってiPhoneで "Heaven" なる小説を書く。これは幼少時に見た「人々がねずみに変わっていく」悪夢を元にしたストーリーらしいが、これを読んだBarronは内容がダーク過ぎるから書くのを止めろとYung Leanに伝えている。

・2015年4月7日、BarronはYung LeanとBladeeを自宅に残して出かける。するとYung Leanは突然鼻血を流し始めた。Snapchatでスウェーデンにいる彼のガールフレンドと話そうとログインしたとき、偶然彼女も鼻血を流し始める。ドラッグでぶっ飛んでいたYung Leanはこの時完全にドラッグによる幻覚と現実との境目を失い、Barronの部屋の椅子や家具をブン投げ彼の自宅を破壊し始めた。彼とともにいたBladeeが911に電話したとき、Yung Leanは血まみれになっていた。

・Yung Leanは病院に搬送されたときひどく分裂症的な状態になっていた。その日の深夜(4月8日の早朝)Yung LeanはBarronにマイアミでレコーディングした音源のファイルを全て引き渡すよう懇願する。

連絡を受けたBarronが車で出発したとき、助手席にはHunter KarmanというLA出身の21歳の若手プロデューサーが乗っていた。警察の報告によると、彼らの車が車線を越えて信号機のポールに激突したとき、およそ時速60マイル(約時速100km)のスピードが出ていたという。グシャグシャになった車が交差点に停まるとエンジンから炎が吹き上がった。通行人たちが車の中からHunterを救助するが、Barronは車に挟まれ助け出すことができなかった。彼は車の中で亡くなった。Barronの父StevenとYung Leanによると、Barronはこの時ザナックスを服用していたようだった。

・この悲報が知られると、Barronを慕う多くの人々がネット上で哀悼の意を表した。彼の人柄や情熱がいかにアーティストたちを勇気づけ、また彼らのために様々な機会や場所を作ったか、彼の偉大な功績を記憶に留めようとする投稿が絶えなかった。

この悲しい事故があったとき、Yung Leanの父親がスウェーデンから息子の入院している病院へとやってきた。最初Yung Leanは彼の父親を認識できなかった。この病院に4日間入院した後、二人はスウェーデンへ帰ることになる。

・スウェーデンではSad BoysのプロデューサーであるYung GudがYung Leanのアルバムを完成させようとスタンバイしていた。しかしマイアミから戻ってきたレコーディングのファイルはひどい有様で、いくつかパートが欠けていたりボーカルトラックがひどく歪んでいるようなものだった。Yung GudはYung Shermanとともに1ヶ月かけてそれらのファイルを何とか再構築し、そしてYung Leanにもう一度ボーカルをレコーディングするよう連絡する。

2015年の11月、アルバムからの1stシングルとなる "Hoover" のビデオが公開。2016年にはアルバム "Warlord" がリリースされ、それに伴うワールドツアーがアナウンスされる。これはYung Leanたちが再びアメリカを訪れるということを意味した。

・このアナウンスが発表されたわずか5日後、突如 "Warlord" のブートと思しきアルバムがSpotifyにて公開される。このブート盤の正式タイトルは "Warlord (This Record is Dedicated to the Memory of Barron Alexander Machat (6/25/1987 - 4/8/2015))" 。落書きのようなヨンリーンが中指を立てているイラストのそれは、聴いた人によると「未完成」な印象で、そして事故で亡くなったBarronが運営していたレーベルHippos in Tanksへのトリビュートを思わせる "Hippos in Tanks A division of the Machat Co" というコピーライトが付いていたという。

この "Warlord" ブート盤をアップロードした人物は、事故で亡くなったBarronの父親であり、そしてレーベルHippos in Tanksの共同運営者であったSteven Machatその人であった。

・StevenはYung Leanたちのアルバム制作に出資し、金銭面でサポートをしていた。そのためこの "Warlord" のデモ・ブート盤をリリースする権利があると考えていた。そして亡くなった息子に捧げるために。StevenはYung LeanがBarronの葬儀に出席せずスウェーデンに帰国したことを強く非難した。このブート盤リリース騒動も含めて、Yung LeanたちとStevenの間に深い怨恨が残ることとなってしまう。

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以上が2015年、マイアミでYung LeanらSad Boysの面々に起こったことの全てである。年端もいかぬ若者が成功を手にし、すぐにドラッグに嵌ってしまう現実。よくあるロックスターの栄光と没落のストーリーの形式を踏襲しているように見えるが、年齢の若さと成功を手にするスピードというのが90年代なんかと比べると全然違う。

特にリーンやザナックスで命を落とす若いラッパーが最近後を絶たず、海外では大きな社会問題となっている。

上で紹介したFADERの記事によると、このマイアミでのことがあって以降、Yung Leanはドラッグを辞め、クリーンに暮らしているらしい。

記事の後半に載っていたヨンリーンの幼少期の話やスウェーデンのインディーシーンからフックアップされた話など、とても面白かったので元気と時間があるときにまた訳して紹介したいと思う。